もう桜は勘弁してくれ      
         
       
        桜の下  
          

 アスファルトが揺らめいていた。目の前の風景すべてが同じリズムで微かに揺れ、その中でただ春の陽射しだけが

真っ直ぐだった。その不協和音は立ち昇る陽炎でも、ましてや逃げ水などでは無かった。満開の桜がこぼれ映画のワン

シーンの様に、そして天から降ってきたかの様に舞っていた。

 良い天気になりそうな朝で、「散歩」「山路」「笑顔」などの単語をボンヤリと思い浮かべていた。

 ラッシュアワーは疾うに過ぎたが、街はまだ半分しか活動を開始していない。そんな人もまばらな金沢文庫の駅を下

りる。そろそろと、もどかしくなる程ゆっくり開店の準備を始めた商店街を静かに通り抜け、国道に出る。舞い散る桜

が、行く手に立ち塞がる雪礫の様にも感じられながら漫然と歩く。国道のいつもと変らない激しい交通量が、昨日から

ぼうっとしている私には、何故だか不思議なのだった。彼らドライバーは何を思いながら走っているのだろう。そして

商店街の人々は今日一日でいったい何回、歯を喰いしばるのだろうか。皆、生きるために動いている、働いている。そ

してこの私さえも生きている。人の生業が紡ぎだす風景はその人が生きている限り、そう変わるものではないのだが。

でも今朝だけは、何故か不思議な眺めではあった。

 かなり歩いた気がしたが、実際には駅から五分くらいだったのではないか。約束の建物には駅前で待ち合わせをして

一緒に歩いてきた私たち数名の他には未だ誰もいなかった。ただあの人だけはそこにいた。白い棺の中に花々に埋もれ

て。すぐにでも円海山へ散歩に出発できる様、胸には愛用の、私も見慣れている帽子が置かれてあった

   

         


 夢を見ていた。

 私は旅行者などでは無かった。首に手ぬぐいをかけ、右手に鍬を持っていた。いつの時代だったのか。いずれにしろ田

んぼの中のあぜ道をてくてくと歩いている。やがて辻に差しかかった。どちらに曲がって良いか判らない。すると、脇の田

んぼで作業をしながら私を見ていた男が、「海に行くなら、その辻を右に折れなければ駄目だ。左に曲がったら志津川に

行ってしまうぞ」と声をかけてきた。行ってしまうぞか、何故、行くぞではなく行ってしまうぞなんだろうか。そもそも彼とは知

り合いだったかしら。どうでも良いが何か面白くないなと思いながらも、そうだ、私は海に出たかったのだと気が付いた。

右に折れなければならぬ。しかし左にも行かなければ取り返しのつかない事になる様な気がした。そしてそれは何の確証

も無いのだけれど、にも関わらず一つの確信の様ではあった。ほんの少し、迷った後、私は海の方へ数歩歩き出した。戻っ

て左の道に行こうかと強く心を残しながら。

 そこで眼が覚めた。鈍い目覚めだった。

   

        繰り言


 一緒に良く呑んで貰った。ある時、どんな小説が面白いかとの話になり、あの人は思い出したように「吉村昭の『破船』

って読んだ事あるか」と盃を左手でブラブラさせながらも言われた。「読んだ事はありませんよ。題名から察すると、乗っ

ていた船が衝突か暗礁に乗り上げてパニックになる話ですかね」。そんな様な事を面白半分に応えた。すると私には心

地良い、いつもの口癖が返ってきた。「バカモーンッ。そんな単純な話であるもんか。まあ、読んでみろ」。

 その後、早速読了。興味深く印象に残る小説でした。

 ここ数年来、私は身体を壊している。自宅療養中。それでも『ハマ文藝』に詩やエッセイを載せてもらってはいたが。そ

のエッセイを見て、例の一喝が来る。「バカモーンッ。こんなオトボケを書いていないで、お前も子規の『病牀六尺』に負け

ないものを書く位の気構えでやれ」。

 「病牀六尺」は買ってはみました。しかし未だ読み終えてはいません。そして、もう読みたくはないのです。

 詰まらないことで、くよくよ悩み、良く相談に乗ってもらいました。「バカモーンッ。あらゆる可能性による展開を想定し、

その一つ一つの対処方法を頭の中でイメージトレーニングしろ」。このアドバイスも有り難いものでした。今後も私の人生

に大いに役立つでしょう。しかし、東堂さんよ、頼りにしていた人が、自分の意志で舞台の途中から突然、姿を消してしま

うという、最も忌み嫌う事態が起こるとは、そんな可能性は想像もしていなかったし、だから私は未だに途方に暮れている

のです。

 いつも言われてばかりで、だから、そろそろ此方から、あなたと同じ様に有りったけの愛情をこめて「バカモーンッ」と

言い放つ番でしたのに、その言葉はあなたに届くわけも無く、もし届いたとしても最早致し方なく。だから、だから、だか

らこそ、慙愧に耐えぬ。

  

                                                   「ハマ文芸」39号 東堂直志追悼号(2007年12月1日刊) 所収     
   
         
         
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